山崎貴監督『ゴジラ-1.0』(ゴジラ マイナスワン、GODZILLA MINUS ONE、2023年)
見たいと思っていたのがやっと見れた。
これはもっと早く見るべきだった。
- 特攻隊で濫用された武士道思想の展開
- 戦後のトラウマの呪いと救い
- 国でなく民間の努力とその限界
と考察ポイントが多い。
特攻隊の神格化
主人公(神木隆之介演じる敷島浩一)は、特攻から逃げ、ゴジラへの攻撃からも逃げ、生きていることに後ろめたさを感じている。
どこか中性的でマッチョでなく、頼りない弱弱しさを出している神木君が主人公なのがまた良い。
中盤まで、主人公の頼りなさやもどかしさがこれでもかと強調される。
後半は覚悟を決めた男らしさが際立ち、またその姿勢の変化が強調されている。
ヒーローになれないダークヒーロー像は、クリストファー・ノーラン監督『ダークナイト』(原題: The Dark Knight、2008年、アメリカ)
ここでも描かれていた。
日本では歴史的、文化的に(一応)継承されてきた、武士道的な日本男児像。
ここからはずれた主人公像が描かれ、武士道性が変化しているのも注目。
スティーブン・クレイン(Stephen Crane, 1871-1900)の『赤い武功章』(The Red Badge of Courage, 1895)
ここで、戦争から逃げる男性像が描かれていたのを思い出した。
死を賭してでも敵に打ち勝つことが求められる武士道からの逃避、は面白い。
傷を持つ主人公
ひょんな出会いから家庭的なあたたかさを垣間見る主人公敷島。
とはいえ、特攻から逃げ、目の前で仲間をゴジラに惨殺された経験から悪夢に襲われる日々。
『ベルセルク』のガッツ、『ヴィンランドサガ』のトルフィン。
漫画でもトラウマを抱えて冒険をする主人公はいる。
ただ、敷島はガッツやトルフィンのように強くなく、なよなよしている。
とはいえ、敷島はトラウマを抱え、日本国としては敗戦を迎えたものの、一人ゴジラとの戦争は終わっていなかった。
このトラウマからの解放としてかつてできなかった特攻(つまり「死」)に見出すのも自然である。
しかしながら、この作品が強調するのは「生きる」である。
国でなく民間、の限界と可能性
クライマックスでアメリカとソ連の外部的要因とは言え、日本は骨抜き。
国としてゴジラ討伐への軍事行動ができない。
国民を守るよりも、外圧や対面を優先する日本国。
皮肉にもよく描かれている。
セリフの節々に
情報統制はこの国のお家芸
などちくりと批判が入っているのも良い。
そして後半はあくまで「民間」が動くしかない状況。
ここで「自助」「共助」をやることが前提。
昨今の新自由主義的で日本的とも言える。
愛の表象
日本的として良い部分は、陳腐なキスシーンやロマンティックシーンが「ない」ことだ。
欧米化した作品だったら、最後のシーンはぶちゅーとディープキスだっただろう。
それではこの作品の質が落ちる。
日本性を残しつつ、その日本を現代的に変化させつつ、伝統としてのゴジラを深化させた作品だと考えた。
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