リメイク版『許されざる者』:軽くなってしまった重さ

つまらないはずがない。でもモヤモヤする。

クリント・イーストウッド版がすでに西部劇映画の至高である。

ある程度映画作りをすれば、リメイクでも良い映画になるはず。

このリメイク映画も間違いなくよい映画ではある。

しかし、オリジナルの良さをあえて潰しているようにも思えたもったいない映画だった。

映画『許されざる者』本予告【HD】 2013年9月13日公開

李相日(リ サンイル)監督『許されざる者』(2013年、日本)

アメリカ西部の開拓地を北海道のそれに置き換えることは、しばしば行われた。

 

テーマ的にもよい。

かつての人殺し(ガンマン・侍)が隠遁

かつての殺しのスキルは失っている

街に出てもいったんはぼこぼこにされる

復讐の難しさを見せつけるのもよい。

 

俳優の迫力、個性、演技もよい。

渡辺謙のラストサムライ的、「ジャパニーズブシドー」的な雰囲気も良い。

クリントイーストウッドとはまた異なった男性性を見せている。

これはこれでよい。

 

ただ、

アイヌやマイノリティー路線への脱線

そのわざとらしいマイノリティーメッセージ(確か「俺たちアイヌは結局おいやられてるんだ!」的な発言)

暴力されるアイヌの表象が強調され

本来期待してしまうはずの「ガンマン(侍)の不気味さ・怖さ」

これが意図せずとも薄まり

権力にひれふす少数・体制への反抗・差別

これらが少なくともサブテーマとなってしまっている

 

もういっそのこと

それをテーマの映画にして、もっと掘り下げる

であればよかったかもしれない

でもこれは『許されざる者』のリメイクで

アメリカ原住民はオリジナルでは確かに出てくるが

あくまで傍観者としてさらっと出てくる役割だった

 

西部劇は確かにもともと

アメリカ大陸の侵略した側が

侵略した側の視点で、侵略した側を

正当化・神格化する意図が無意識にもあったもの

 

それがイタリアを中心に、アメリカ以外の国々で作られ

アメリカ本国では少しずつ売れなくなってきて

それを新たな視点で、侵略された側の視点も入れつつ

Revisionist(修正主義)的に描かれ始めた経緯もあり

 

『許されざる者』は、そんな中、また侵略された側の原住民を傍観者として位置させ、

そいの「西部」というプラットフォームを用いて

あくまで侵略した側(白人・娼婦・)の中でのドラマや復讐を描いた

 

マイノリティーや差別表象

確かにモーガンフリーマン(黒人)が

白人によってなぶり殺しにされ、店の前でさらしものにされてしまうという

おぞましい描写は確かにある

その暴力がきっかけでクリントイーストウッドを目覚めさせる

そういう機能はあった

 

しかし、

先住民 vs 体制 & これに付随する差別意識

というもう少しマクロな差別装置とはあえて距離を置くことで

「個」の感情に特化することができた

 

差別問題は確かに深い問題ではあるが

「人間社会」という、少し知性がついてしまった動物が文明に生きてるふりをしている中で

「さべつをなくそ~」とはいってみるものの

実際は動物に少し毛が生えた程度の生き物ということは否定できず

人間の深層心理ではなくなるはずがない

そんな差別を「テーマ」としてしまうことは

深く見えて、実は浅くなってしまう危険性もある

 

リメイクでは中途半端に深いテーマを浅く扱ってしまい

主演俳優に埋め込まれたイメージや演者の演技でカバーはされているものの

オリジナルの深遠さが意図せずとも薄くなった

 

最後の剣劇もどうなるかと見ていたら

不要なスローモーションで「復讐」のリアルな描写は逆に薄まり

複数のガンマンに囲まれても、黙々と目的を果たし、無傷で立ち去っていくイーストウッドの

「無敵の殺し屋に戻ってしまった感」

これが

「戦って普通に傷ついた侍」

に薄まった。

 

同時期に

 

映画『マグニフィセント・セブン』予告編

アントワーン・フークア監督『マグニフィセント・セブン』(2016年)

 

これも見たが、ここまで解釈をぶっとばしたリメイクでは

逆にオリジナルへのオマージュが新鮮さや刷新感を与えた。

 

 

確かに良い映画ではある(にしかなりえない)

しかし

作品の重要テーマをほかの大きなテーマに一部を移行させた結果

薄まってしまった

そんな心に残ったもやもや感を言語化してみたら

けっこう文字化してしまった

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